Tuesday, December 16, 2014

哲学って人の役に立たなくても平気なものなのかな??

http://heideggerforum.main.jp/ej2data/phro.pdf

「理論知」と「実践知」

このシンプルな対置や、他方による一方の復権などではない

アリストテレスから始まって、ハイデガーを経て、実践哲学復権の運動という知的活動の意義も、そもそもの動機も、「理論」「実践」いずれか一方では不足する部分を、いかに補えるか?という問題だろう。
(もしも「え?どっちか一方じゃだめなの?ほんじゃ両方ってことでええんちゃう??」で済むようなことなら、何も過去の偉人達のテクストの解釈について喧々諤々する必要などなかろう。)
なので哲学者たちの知的活動の意味については「ある」と言える。

のだが、、、。

こう。。なんての???

対概念を置いて、どっちがどっちとか?その融合はいかに理路整然と行えるか??ってのは、、、

それこそ強引がっちゃんこ(分離?)のデカルトとか、あまりに整然としたヘーゲルとかがあって、、

やっぱ1+1=2みたいなのは無理そうってことは分かっているわけでさ、、、

対概念の概念をめちゃめちゃ読み込んで解釈し直してね、、何を目指しているのか???ってことなんよね。。。

なんかさ。。「俺の解釈こそ正しい」みたいな匂いがプンプンするんだけど。。。
(それで専門「解釈学」っちゅうのがちょっと可笑しくなってしまうんだけど。。。)

あのさ。。

「正しい解釈」なんて無理なんだよね。。。

もしも「正しさ」を追求しようと思うのなら、「何のために」という目的の設定にかかっているんですよね??

何故「解釈学」を勉強していて、「正しい解釈」にこだわるのか??
この矛盾は深刻で、それをこそ哲学するべきなのでは??

頭のいいといわれている人も、日本人は、自己を奥行き深く検証できない。
頭のいいといわれている人は、一生懸命、「Categorical」な知識に戦いを挑み、克服することが、「知」の全てであるかのようにみなしているのではないか?

本論文のようなものが書けるということは、問題設定を、著者なりに行っている。
(著者が書きたいことは何か?が明確にある、ということ)
それ自体も実はめっちゃ難しいこと。
なんだが。。。

必要以上に難しくしている感じがする。
何故なら、「Categorical」な知識というのは、基本的に既知なわけで、それに含まれる細々とした要素は、変更は不可。
要するに憶えるなり、なんなり、正確に写し取ることが肝要。
とはいえ概念化して複雑化すれば、そこには「解釈の余地」が生ずる。
よって、この論文が主にやっていることは、「ぼく。これとこれとこれをこのように解釈しまっす!」てことなわけ。
で。問題設定の難しさのお話なんだけど。
「Categorical」ってのはいくら「解釈の余地あり」とはいえ、基本変更は不可なわけで、その中から「解釈可能な部分」を見つけ出すってのは、えれー手間暇かかるのよ。ましてや、ハイデガーにアリストテレスでしょ??「Categorical」の枠内に留まるなら、独創的な解釈が許されるポイントなんて探し出すのは相当難しいわけ。だって延々偉人たちが解釈しているわけだから。
そんな手間暇かけて、いくら正確に解釈しようが、産み出されるものはものすんごいマージナルなのよね。。。
それが全く無駄だとは言わない。
どちらかというとそれは基本のキ、と思う。
但し。
人間に与えられた限られた資源を考えるなら、既知の「Categorical」については、大間違いをしないで理解した上で、それらの知識をリソースとして、現に今生きている人・世界のために、より有益な「知」を生み出す、という方がより重視されるべきだろう。

例えば現在の日本の政治家の問題なのだが。。
それってわざわざハイデガーとかいう難しいテクストを持ち出してまで語る必要のあるものなのだろうか??
もしも必要であったとして、「だからハイデガーを読め!」ではないと思うのよね。
示唆多いなら、それ、教えてあげればええことでしょ?
それができないってことは、要するに、問題の政治家たちを救えない、ってことなのよね。
勿論知っている人たちは問題のある政治家とは異なる次元にいると思う。善悪の。
でもね。
知ってて救えないって方がある意味悪いって考えもできるのよね。。
どう思いますか??

そうなんです。
あなたもわたしも日本人なんです。
めっちゃ注意して問わなければならないのです。
「あれ??私って今何してるのかな??」って。
へへん!そんなナイーヴな問い、全く私には関係ない。
ってのがね。。。これ実は日本人であるからこそ陥りやすい罠なのよ。
だって普段から「私」とはなんだろう?なんて問わないじゃない。。

「Categorical」な知識の理解には正確性が求められる。
ましてや文字文化が発展しきっている現代、知識の量は膨大で、概念も複雑化している。
でね。
ほーら。私。こんな沢山のことこんなに正確に理解しているんですよ~♪って自慢したくなる気持ちはわからないでもない。
けど。
そんだけエライんなら、やんなきゃなんないことはいっぱいある。
いかにPracticeに落とし込めるか?
なんで人々は理論とはことなる振る舞いをするのか??はたまた理論ってものがそもそも立て方間違ってんじゃないか??とかね。。
もちっとバランスとった方がいいよね。。。

知識は「理論」と「実践」の二分法ではカバーできない。

カントなら、Sense, Appereception, Imagination
Peirceとかね。

私が推すのは、自己、人、モノ。

モノ、コンテキスト、メディエーターかな。。。

本論文の著者は、もっともっと、著者自身について問うた方がいい。
その正確な解釈(モノ)を、どんな場面(の住む世界)で、誰(自分も含めた生きる主体)のために活用したいのか?すべきなのか??

いや多分。この人やこの人が属しているコミュニティでは、これでいいのだ。
その立派なモノを、人の世で、現に今生きている人々に有用なように、活用するにはどうするべきか?は、私が考えるのだ!(できれば適当なコミュニティとともに。。。)
但し、この論文の著者やそのコミュニティが、間違って、一般庶民をディスるようなことをするなら、それは「違いますね」と言ってあげればいいこと。なんだよね。。。


保守的な「普通の人」と政治について話して気づかされるのは、彼ら彼女らが自分や自分の身の回りの人びとのことを自分なりに大事に思っていて、その結果として投票をしているのだという当たり前のこと。そこにリベラルな考え方を伝えるにはもっと魅力的な価値を発信しないといけない。誰もできてない。(「普通に身の回りの人々のことを自分なりに大事に思う、そして行動する」ということはそれ自体価値のあること。だとすると、その「価値」について「気づいてもらい」、「さらに心から価値あるもの」と得心してもらうことが大切。ということなのかな??その「気づき」を与えるとき、単に「素晴らしいことです」ではなく、「何故?どのように?」という説明が、「価値」を高めるのかな??「気づき」にはどうしても社会的な価値観が付加されるとか??例えば「現時点でも自然(意識せず)他者との利害の調整などが行われている。では、もしも現在気づかずに実践している、調整の範囲を、意識して、若干広めてみた場合どういう利点があるでしょうか?それが無限拡大しないことは明らかだけど、ではどこまでなら自力で広められるか?もしくは他者からのどういった協力が必要となるか?」などなど。。。

研究者にも、本当は自分の身の回りの人を大事にしたいだけなのに、あたかも社会正義や普遍的真理を語っているつもりになっている人たちがいる。そういうことをやっているうちは、「保守的なふつうの人」たちも「やっぱり身内のための政治を」となるよね。
学者であると同時に、この社会を構成し、権利を有している政治的主体である(こと)こと。それをすっ飛ばして「観察」に回ってしまうこと、自分と切り離して社会的な事象を語ってしまうこと。たまに見られる問題です。(「たまに」ではない。と考えてみることこそが、日本人には大事なのではないか見逃されやすい点:「観察」は知能の働きが高い人ほど上手。特に「観察」結果をアウトプットできる。という点において。何故なら、「見る」だけなら誰にでもできるし、ということは似たように見えるものも、いろんな人がいれば、多少なりとも異なるように見えるのは当たり前で、じゃあ何が違いを生む??って考えると、そりゃ「どう違うか?」を「別に違わない」と感じている多数派に対して説明できるかどうか?じゃない??という意味で「知能の働きが優れている」人が「観察」上手ということ。であるからして、「観察を上手にできるための知能の働き」=「人間の持つ知的能力の全て」なんてことではない。 また、「観察」というのは、とある問題を外から眺める、ということから、「自分」をその中に含めようとしない傾向が強くなるし、そういった傾向に気づきにくいもの。勿論「観察」を間違いのない方法で、事実を正確に読み取って、誇大妄想にならないちゃんとした解釈を加えて発信する、ということは大切。しかし、普段から「私」というものの正体とか、実体世界に及ぼしている影響とはどんなものか?を理論立てて問う習慣がない日本人は、「観察」が立派にできるということと、「正しい」私、というものを混同してしまいがち。そこには「私」は存在しないものを「観察」しているわけだから、その「観察」という行為の正しさは、単に手順や方法の適切さだけでは証明されない。どのような関心を持って、誰のためにそれをやっているのか?常に考えるべきなのだろうと思う。

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Friday, December 12, 2014

ユダヤ問題

何故よりシンプルな分析がなされないのだろう?

「迫害」の歴史はナチス・ドイツに始まったわけではない。

ではなぜわざわざ「名指しで」迫害される、ということが散発的とはいえ続くのか?

私の考えでは、「ユダヤ人」と称される人々が結束して何かをなしている、なそうとしているから、というのは全くの空想(「陰謀論」に象徴されるとおり)で、問題の根源は、とある一部の「ユダヤ人」として知られる人々が、常に権力者と関わり合いを深く持ち続けているというのが根源的な問題だろうと思う。

「ユダヤ人」と称される人々にまつわる、一つの特徴として、金融業に関わってきていることが挙げられるが、これは何も「ユダヤ人」と呼ばれる人全員が金融業しかしていない、というものではない。
つまり、一部の金融業者が、シンプルに、サバイバルの一環として、「どのようにすれば自らの金融業が持続可能か?また、望ましくは拡大発展可能か?」を検討してきた。その一つの解が、「時の権力者による貨幣に対する信用の保証」であった。
現在の主権国家を単位とする国際社会の構造が確立することと、金融業者の関わりというのは密接で、ラフな視点でまとめれば、共存共栄を図ってきた、ということ。権力者、金融業者の双方が、より安定的なしくみを模索してこうなったのだろう。

問題は、現在の主権国家単位の体制が確立する以前には、紆余曲折があったということだ。
つまり、比較的安定した主権国家が固定される以前には、各地域において権力者同士の闘争が継続していたということだ。
よって、自らの金融業の持続安定的な発展を模索するに当たって、権力者による貨幣への信用保証が枢要である、との方針では、権力闘争に巻き込まれやすいということは自明であろう。

勿論ユダヤ教を背景とする、見た目の違い(風習、慣習も含む)、考え方の違いなども影響しているだろう。
歴史的に「放浪の民」であったことも関係があろう。
より深刻であろうと思われることに、権力闘争に巻き込まれやすい一部の者が扱うものが「お金」であった、ということもある。
何故か?
「お金」は普通の人も使うようになってきたから。つまり、普通の人が「富」の形として、「お金」を認めるようになっていった、ということ。
このような状況で、「どうやらお金はユダヤ人が握ってるらしいぞ」という噂が流れれば、「ユダヤ人」というものに対し、否定的な感情が湧き起りやすくなることは想像に難くない。
ましてや、巷で一風変わったグループと見なされるなら、「ユダヤ人」なるグループが、束になって何かグループの利益最優先で行動しているのではないか(「お金」という「富」の独占など)?と妄想し始めるだろうことも容易に想像されよう。

ユダヤによる金融支配、というものも、どれほど「支配」しているのか?は分からない。(多分全てを握っているということはない)
但し、一般庶民では想像もできないぐらいの額を、日々の生業として動かし続けている「ユダヤ人」が存在することも否定できないだろう。

おそらく、金融グループのトップ達やイスラエルの権力中枢にいる人たちの感覚では、「世界支配」なんて「全くの妄想」という程度なのだと思う。
でなければ、彼らが行動、言動を少し修正するだけで「ユダヤ人」と称される人々全体に対するリスクなど随分軽減されるはずなのに、全くそのような動きを見せていない理由が分からない。
どちらかというと、主権国家としてのイスラエルは特段巨大帝国を築けるような存在でもなければ、敵対国に囲まれていて、とっても危うい存在。
金融業の立場としても、日々の生業なのだから、これが途絶えれば、ただの流民になってしまう、脅かされた存在、ぐらいの認識なのだろう。

「ユダヤ問題」というのは、権力者や、持てる者たちの思考パターンに根本的な転換が見られなければ、引き続き繰り返されるだろう。

これは決して民族問題ではない。経済問題に見えて経済分析のみではどうにもならない。国際政治の問題か?主権国家の中枢にいる人々に絞れば、彼らには「国際政治の問題」として取り組んでもらわねばならないだろうが、民をどう治めるか?ということなのだから、エライ人たちだけで頭を捻っても答えなど出まい。しいて名称を付すなら「人類問題」だ。

(1)「お金」を生存に不可欠な「富」と認識するとして、どの程度が理想的なのか?
(2)「富」の公正な分配というものはどういう姿で、どのように実現可能であろうか?

(1)「お金が人生の全てではない」ことは皆知っている。けど、では具体的に何をどう追求すればよい?「お金」でないとしても、サバイバルに必要な「富」というものはあって、これを追求しない、ということはあり得ないだろう。程度の問題なのだ。「がつがつ」はダメだけど、全員が「ああ。生きていける分だけもらえるんならそれでええよ。」なんて言うわけもない。そもそも人によって「生きていける分」が違うし、多分変わるし。

人生をどういうスパンで見て、どのように運べれば(運べるだろうと予測できれば)より不安が少なくなるだろう?


(2)現時点で稼働しているシステム(「富」の分配に関わるもの、国家や官僚組織や企業、税制、社会保障制度などなど)について、私たちはどのように理解すべきか?勿論ついている職責によって異なるだろうが、私が興味あるのは、システムの運営に直接関わらない(関わってはいないであろうと認識している)、大多数の人々にとっての理想的な態度、関わり方とは??という問題。(「何か」を敵視?問題視?することは避けられないだろうし、種々検討を継続していくモチヴェーションとしては、敵視や問題視は必要ともいえる。勉強しなければならないのは間違いないが、一体「何を」「どのようにして」勉強すべきだろうか?などなど)



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「場」(平面的な世界観・人間観)、「私」に根差した「方法」の重要性

Twishort / hamaokahlisboa: https://twitter.com/smasuda/stat…

hamaokahlisboa: https://twitter.com/smasuda/stat…

https://twitter.com/smasuda/status/542316157600923648 「特権意識」もそのとおりだと思うけど、これとおそらく表裏一体を成すかたちで、「過大な義務感の拡大」のようなものも見られる気がする。
どういうことかというと、「とある分野での先生」なんだけど、「先生」って呼ばれるからには、、、という感じで、全く素人な分野においても、「えらくあろう」とする感じ。
表裏一体と思うのは、面的拡大のイメージが共通していると感じるので。
言い換えるならば、「なぜ、どういうときにあなたは先生でいられるか?先生でいるべきか?」ということよりも、「先生であるからには、、、」と自分の置かれているに注意が向く。自身の専門分野と、全く無関係な分野とが、容易に面的に接続されるのだ。
何故より自らが置かれている場に注意が向くのかというと、突き詰めるならば、「私は何者?」というコンセプトがほぼなく、「唯一無二の個体としての私」とか「そういう私というのは一体何によって形成されているのか?職業のタイトル?いややはり何ができるか?という実能力?その他の性質?人生経験?エトセトラエトセトラ」というような問いにまで落とし込んでの「私」認識の方法が伝統的に存在しないからなのではないか?
「方法」というのがポイントで、要するに、日本的方法には、「他者と(想像的に観念するのではなく)実際に相対する場」における振る舞い方、というものしか存在しないのではないか?
そのために、振り返るとバカバカしくなるぐらいの、面的な拡大解釈によってその都度その都度の行動が決められてしまっている。
現に使用可能な「方法」を選択しているのだから、全く「悪意」はないはず。
西洋の文化や考え方にも触れるので、色々とボキャブラリーは増えるのだが、結局、その運用方法は「実際に接するであろう他者と私との関係」においてどのように運用するか?に限られてしまうので、例えば、自分の考え、発言、行動について、そもそもその素材が何故今の自分に動員することができるのか?というような問いかけはほぼなされない。あくまでも、自他ともに、互いの目に見えるもの(言葉や行動)から、その素材一つ一つが、その見える姿かたちを通して、比較的齟齬のない意味を発信する、かのような解釈。極端な表現をすると、「お前が相手やからこのように言っている」という方に重点があり、「私が最も伝えたいことはこれこれです」という風な認識が薄い。これはどっちがどっちというものではなく、本来常に悩まされ続ける問題。であるにもかかわらず、日本的方法(「場」重視、実際の相手方対自分(「空想の中の可能性のある自他関係」或は「どこかで仕入れた過去の情報にある自他関係」などはそれほど分析しない))では、実際に接する相手に対し、相応しい選択をしているか否か?を極端に重視するため、「一体私は何を伝えたいのか?」「その伝えたがっている私というのは何故そのように感じ考えるのか?」というところまで掘り下げた、自己の発言、行動に対する責任感が発生しない。
多分、だから多くの日本人(知識人を含む)は、西洋起源の哲学や、キリスト教的な考え方について、その真髄(なんで人々は何千年もこのようなことを考え続けているのか?その理由)が解っていないのだと思う。
つまり、もしも日本的方法になくて、西洋起源の哲学や宗教にある、というものに真摯に向き合っているのなら、西洋の学問知識(特に人文系。人って何?という問いかけ)を、彼らが何千年も繰り返している次元の自己に対する問いを行っていない人々(日本人)には、どのようにして伝えるべきか?伝えることによってどのような利点があるか?ということは考慮されていたはずなのだ。
それがないために、いくら正確に西洋の哲学などを理解したとしても、その問いかけの起源も、運用方法も存在しない日本においては、ほぼ何の役にも立っていないのではないか?
やはり、知識というものは、正確に理解できているか否か?だけではなく、どのように運用されるか?によってその価値が大きく膨らんだり萎んだりしてしまうものだと思う。
知識を活用するためには、日々人々がどのように生きているのか?感じ方考え方の「方法」も知らなければならないのではないか?
そういった「方法」の中でも、私は特に「私というつかみどころのないものといかに向き合うか?」についての「方法」について重点的に(しつこく?)みていきたいと思う。

3 days ago via Twishort

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Thursday, December 11, 2014

言葉と実生活と私(論理、道徳、責任感など)

ともかく言葉というものがなぜか「どうでもいい」と暗に認識されているような気がして仕方がない。
この「どうでもいい」感の根源の内、いくつかは思い当たる。

(1)言葉なんて通じりゃいいんでしょ?通じてるってことは論理的にも整合してるんじゃないの??ってぐらいに論理整合性なんて「どうでもいい」
(2)採用した単語、それらからなる文・文章が、現実のモノ・現象・心的事象などを正確に表現できているかどうか?なんて「どうでもいい」
(3)言葉が何を指し示そうとしているのか?について、正確を期すことが、自分たちの暮らす実生活にどんな影響を及ぼすか?については考えたこともないので「どうでもいい」
(4)特に「過去の発言」と「現在の発言」との間の論理整合性なんてはっきりいって確保できるわけがないんだから、「あの時はああいってたよね?」なんて全く「どうでもいい」
(5)身近に同様の人がいなかったり、いてもすぐそばにいないとかで耳に入りそうもないという状況だったら、「何言ったって構わない」ってぐらい、「他人の感情を動揺させるような過激な表現の後、動揺させたことによるばつの悪さ」みたいなものを感じている形跡がない。つまり、言った言葉が自分自身でどのように経験されその経験を通して自分自身がどのようにじわじわと形成されていくか?なんてことは「どうでもいい」
(6)上記(1)から(5)に通底しているものは、「私自身が現に感受した感覚」が例え言葉でなるべく正確に表現できなかったからといって、「私」が暮らす実生活には何の影響もないだろうつまりは、「私」という人間が感受している感覚のその大元となるものは、「私」の暮らす実生活と同じ空間に存在し、そこから発せられている、という認識がないため、「私自身が現に感受している感覚」なんて「どうでもいい」
(7)故に、「私」にどんな機能が備わっているのか?「私」という人間は実生活において何をどうなすべきなのか?という次元での「道徳観」や「責任感」がその言葉から滲み出ることはないし、つまりは、「私」という人間なんて言葉と同じぐらい「どうでもいい」

いやとにかく、、、言葉に対する真摯さがないのよね。。。(「所詮、、、」って感じ)


山本七平氏の分析に対する考察


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Wednesday, October 8, 2014

Poor imagination →ニッポン賛歌♪

I suspect that my compatriots are poor in imaginative capacities. They just do not know how to imagine.
Imagination actually requires both aesthetic intuitive insights and logical scientific analytical capabilities.
My compatriots are culturally good at imagining how others are likely to see them. This is one of important qualities to go through everyday life establishing reasonably predictable ways of thinking and acting. Since it is not possible for anyone to be sure completely of what will happen in the future, we need to have relatively reliable ways of acting. Otherwise, we should more often than not be faced with problems, such as unintended conflicts with others and anxieties caused by uncertainty about what to do, when, where, how and to and with whom.
On the other hand, they are poor at making logical scientific analyses on a variety of encounters.
This is just a matter of preferences and concerns.
Because they value highly how to read others' interests and concerns, what is more important is how they behave than what to do on what grounds.
Why is it so?
Such should necessarily happen when people are interested too much in responses from others.
Imagine how we assume others' possible conducts in response to our actions.
Assuming about others' responses does not necessarily require precise understandings of what to present to others.
What is important is rather ways of expressing than logical coherence of what to be presented.
Why?
Let's think this way.

You just wish to walk through a street along which a relatively large group of people who look like savages is dully wandering. For the sake of your safety, what is important is not what your occupation is, what competencies you have, for what purposes you need to walk through the street, and how justifiable reasons you have to do so, but how safely you can pass through the street.
Unless you get too nervous to think properly, you would not think of first and foremost showing off your justifiable reasons walking there, or how vigorous you look hoping that none of the savages feels like offending you. The most reasonable judgment will be not to catch attention of them. Then, you are most like to be concerned with how you may appear to them while passing through the street, rather than your identities, moral reasons or rationally justifiable purposes.
In short, assumptions about particular ways of behaving and others' responses to them have almost nothing to do with how precisely you can communicate what you are feeling, what you believe to be right, or who you are.

On the other hand, you sometimes need to communicate as precisely as possible how you feel, what you are thinking about a certain topic, or for what reasons you are doing or did something.
Of course, it depends on situations. It depends on with whom you are or against whom your actions are directed. Nonetheless, there is no definitively correct strategy going through everyday encounters.

It is said that conspiracy theory sometimes correctly describes reality. But, if people get too much affected by conspiracy theory, society will become more and more hard to be lived through. This is because conspiracy theory induces doubt about value of sincerity or honesty. Insofar as there are groups of people who try to manipulate things for the sake of their respective groups, being honest seems to be the least profitable strategy. People always wait for others' taking certain actions and try to manipulate them for their own sake rather than present their sincere wishes which are likely to be manipulated by others. Alas! Then, people will come to act out trying to project false images toward others. In consequence, they will become unable to trust effects of communicating as precisely as possible their intentions, interests, values or simple objective material facts that can potentially command fatal material consequences. 
Being doubtful is not something that can be avoided only by disciplinary creeds. However, by being doubtful, people are fated to lose precious opportunities to run their society in a constructive and productive manner. Rather than being faithful to one's belief, people choose to wait for somebody's mistakes or misbehavior. 
We need actually to be serious about the effects of telling lies. As a Japanese proverb says, telling lies is sometimes necessary with appropriate rhetoric thus depending on contexts. It is actually contextually viable. Hence, if people misunderstand contexts, lies do more harm than good. The most serious negative effect is that lying to one's own sincere wishes shall seriously damage relatively predictable ways of acting which are critical to just go through everyday life. Consider the fact that no one can live without taking any action. Regardless of whether one wishes to act or not, s/he is mobile as far as s/he is alive. It is almost impossible to remain still forever until s/he dies. Acting without thinking is a critical and necessary condition on which human beings who have innately inherent predispositions of feeling and thinking live through their lives minimizing possibilities of serious disruptions.
We need to get back and appreciate the value of being honest and faithful to our own real concerns.


腐っても腐らなくてもニッポン♪

しかし腐りきっとるな。。。

それでもニッポン!

とことんがんばらないくにニッポン!

お遊びでいいのよ人生なんて。ニッポン!

だって所詮人生たったの80年でしょ?ニッポン♪

それが何世代続いたところで一人が生きてられるのは80年そこそこ。ニッポン!

真面目に生きる??何ですか~?ニッポン

真面目に生きたって生きなくたって何も変わらんでしょ?ニッポン!

幼稚な正義のくにニッポン。

間違ったやつは周り確認のうえ「ふむふむ。ね。やっぱこいつだめでしょ。」ってわかったら徹底的にたたくニッポン!

何がダメで、何がよくて、何が許せて、何が許されないか、いちいちケースバイケースで考えるのは無駄なくにニッポン!

ケースバイケースでいちいち考えとかないとある日突然自分が袋叩きに遭うかもしれないのに、「絶対そんなへまするわけない」って豪語するひとだらけのくにニッポン!

内面なんてどうせわかんないんだし、外面あわせてりゃいいのよニッポン!

外面あわせるのだってけっこ大変なんだし~ニッポン!

あー幼稚くせー

酸素吸って二酸化炭素排出して、エネルギー消費して、ごみ捨てて、うんこして、、

むっちゃ無駄なんですけど。。。止めてもらえます??生きるのがそんなにおもんないんやったら。。。

論理が。。。
論理になってないくにニッポン↓

なんでそんなすぐ感情的になる必要があるのかな??ニッポン。。情緒のくにだから??いやぁ~ちがうと思うけどな~。。

なんかさ。情緒の文化は維持しつつ、科学的思考のダメなところを気づかないで、でも科学的イメージの方が便利、強そう、なんか文句言われなさそう、、みたいな雰囲気だけで、かなり堂々と乱用している感じ。。ニッポン。。

科学的思考のダメなところ??
両面共存は原則表現できないというところさ。

それを克服するにはとりあえず二つのことを別々に表現するしかないんだけど、それをすると、複数視点を表現した、という事実にこれまた「正しさ」が乗っかってしまうので、余計に、「なんでその二つがどのように大事だと思いますか?」って問いから離れてしまうのよね。。。要するに言いっぱなしが許されるのが科学的思考なの。だってきちんとした手続きで立証するわけだからね。「ほれ。証拠はこれよ。なんなら調べてちょ♪」って言っていいの。分かるかな~??

結果。。どんどんどんどん無責任体質が強化されるのよ。。。

相対性理論ってあるでしょ?

これ比喩的に日々の生活、行動様式、思考過程とかにも使えるんだけど。。。
どうやって使えると思います??

責任の取り方。

いろんな価値が併存するってことじゃないのよね。。念のため。

いろんなものが併存するというのが事実としても、今現に通過中の現実があなたの現実。
ほかの人にももちろんその人が通過中の現実はある。
でもそれを知ったからといって、今現にあなたが通過中の現実からは逃れることはできないの。
要するに受け入れねばならないのよ。
ほかの人はあんなに楽してるやん~。ほぼおんなじように生きてきてるはず。いや自分のほうがもっといろいろ工夫したり我慢したり、他人思いに生きているのに~。。
って言ってみても何も変わらないのよ。

相対性理論って科学の世界の内輪だけでも相当貢献しているけど、実は人々の生き方にどう活かすか?という視点でもかなり有力な理論なんだよ~。

科学の世界でね、宇宙は一つではない、とか、無数の可能性があって、実現したものというか、測定してみてそこにあることが確認されたとしても、それ以外の存在の仕方をしている宇宙が別にあるとかね。。

それが物理や数学で証明されたってことはさ、科学者だって薄々「げげげ。言いっぱなしはできないんだ。。。」と気づくわけさ。人間である以上はね。

ある意味神様がやっとこ戻ってくる道筋が示されたってところかな?

神様が戻ってくる道筋って?

言いっぱなしなんてのは神様にしかゆるされない特権。究極の想像上の(人間にとっては)架空事実なのよ。(でもたぶん世界はただそこにあるがままにある、という状態で存在していると思う。あくまでも人間の意思、思惟ではそれは架空のイメージでしかない、ということで、それが現実にはない、ということではありません。)

人間はその思惟でもって、「たのんます。これほんま大事なんで、、、。神様このようなイメージの世界。なるべく多くのひとの現実となるようにお導きくださいませ。」ってね。お祈りするわけ。人事は尽くすのよ。だから。必ず。祈ったよ。ほい。で??なぁんや。。全然ちゃうやん。現実。。なんて文句いっても、そんなの聞いてくれるもんじゃないからね。。神様って。。もっともっと崇高で人間には手の届かない神聖なものなのよ♪
だから神様なんだけどね♪

さあて。
よって。
人事なんて面白おかしく尽くさなきゃやってらんないわけ。だってどうなるかわかんないんだもの。どんなに緻密に真面目に計算したり工夫しようとしたりしてみたって。
それはふざけているとかあきらめているのではないのよ。
祈り。
断じて祈りなの。
世界平和を祈ってみんなを笑かすのだ。
そのほうが楽しいと思うんだけどな~。。。
だめかね???


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Thursday, October 2, 2014

Politics of Disorder

After reading a blog article about a study on reality of one of public sector organizations in Zimbabwe which are often described to be in a state of corruption, I wonder if it could be a good start to elaborate detailed micro-politics being practiced by many of public servants in relatively disadvantaged countries. It seems to me too obvious that people have a variety of reasons for being engaged in certain corrupted practices while quite a few of them remain committed to their formal duties, publicly desired norms and obligations. Thus, describing reality in detail is indeed necessary not to attribute underdevelopment simply to corrupted behavior. Nonetheless, I feel uneasy to see people from developed countries revealing reality in developing countries in part because they appear as if they stopped short of finding out just ordinary people doing ordinary things. Despite the variety of reasons of corrupted activities, at least partially the global political system must affect the situations negatively. Hence, it gives me an impression that people from developed countries which can exert significant influences are complacent unless analyses include practices on the side of those who have more power. The study mentioned in the article is critical of simplistic views on corruption in Zimbabwe. But, what we need to be critical of must be not only how to frame events and phenomena occurring there but also why and how the situation in which relatively simplistic views proliferate has been brought about and sustained. Obviously, those from developed countries take part in the processes. Their moral obligations cannot be fulfilled simply by revealing reality but they need to ask if they have legitimate right to do so.

Ethics

I'm concerned with how people's conception about being good can be diversified. Although some might have already heard that each one of us lives through once occurring unique life, we have not seen many to be appreciating such precious uniqueness. Rather, it appears that people's values are too easily converging on several dominant ones, such as wealthier than poorer, material reality than conceptual ideal, brighter than darker, and clearer than obscure. Since the Enlightenment, or probably even before ancient Greece, those who are better endowed with intellectual abilities have bothered themselves telling people that we can be better than what we are now. What irritates me most is their ignorance of power on which they bestow. Regardless of their virtuous intentions, it is their inherent abilities that enable them to speak to people. Insofar as they continue ignoring this fact, their virtuous words would never do justice to the virtue inscribed in their words. This is because being ignorant of their innate gift, they could never think of on what grounds they are qualified to speak to people; to what degrees they can tolerate their disadvantages for others' benefits. Without understanding when and how one's survival can be threatened to terminate, their virtuous words to propagate happier lives than those of now forsake their pursuit of virtue. How come can those who have no idea about their own survival talk about others' well-being? If you wish to take care of others, you need to know to what extent you may be allowed to spend your own resources for the sake of others. Offering care without establishing practical estimation about how much will soon turn out to do more harm to others than good because no one knows nay pursue optimal degree and manner of re-distribution of resources. Class struggles or even warfare between nation states persists.

Friday, June 20, 2014

サッカーは文化だ!!

2014W杯ブラジル大会も開幕後1週間が過ぎ、グループステージも2節が終わろうとしている。ご存知の通り我が日本代表は2節を終えて1敗1分け。勝ち点1でグループCの3位(ギリシャとの得失点差による)。このグループ突破が非常に厳しいものとなっている途中経過よりも、おそらく多くのサポーター、もしくは日本人だしとりあえず代表チームを応援しているという人々をもっともがっかりさせているのは、我が代表の「戦いぶり」にあると推察される。(私自身もあまりに血沸き肉踊らなさ過ぎてものすごい空虚感に苛まれました。)
ネットしか情報源がないので実態はよくわからないものの、非常に曖昧なものとは分かりつつも、「気持ち」であるとか「戦う姿勢」であるとか、この面白くなさ加減を多くの人がいろんな形で表現しようとしているように見受けられる。(監督の采配、戦術の是非などなども持ち出して。。。)
果たしてこの曖昧さ、本当に曖昧なのだろうか?
TV画面を通しての情報だけで何がわかる?と言われればそれまでなのだが、同じTV画面を通して見る他国チームの戦いぶりと比べて、私の血が沸かず、肉踊らないのは厳然たる事実なのだ。曖昧というのは認めるが、事実は事実だ。
それでいろいろと考えていて、ふと思いついたのがタイトルの通り。
サッカーは文化なんだろうと。
他国代表チームの試合と、我が代表チームの試合で、決定的に違うと感じるのが、ワイルドさ。前者にはあって、後者にはない。違う言い方をするとおとなしい、とか、お行儀がよい、という感じ。で?一体それって何が原因なのだろうか?と勝手に考えを進めてみたのだが、同じ走る、という行為一つとってみても、ほとばしり出るような気合い、というか、「気合」なんて言ってしまうと、まだお行儀のいい人々の世界のお話で、たとえるならば食いしばった口の脇の方からよだれがどれーんと垂れてこんばかりの、半ば狂乱者の風情とでもいおうか、そういったワイルドさが、我が代表からは感じられない。(もっともイメージ的には近いと感じられる岡崎選手ですら、大会前の体調不良のせいもあってか、いや、多分そうでなくとも、「よだれ」までのワイルドさは感じない。)そんなんいったら、じゃあ他国代表チームの選手達は狂乱した野獣たちなのか?とか反問されるだろう。(あとでも述べるがこの反問、容易なつっこみに走る文化も、文化なので、サッカーにも影響があるのだが。。。)勿論そんなわけはない。劇画じゃないんだからね。ただ私の感覚、直観が「違う」とシグナルを送ってきているだけのこと。ではでは、またまた、「ふん。そんな超私的なあるかないかもわからんもので何をほざくか?」という反応になることは容易に推測されるのだが、ともかく進める。
今の例は「走る」を例として挙げたけれど、サッカーの試合というのは常に流れていて、様々な局面が次々と展開されるので、選手たちは本当にいろいろな動きが求められる。つまりは局面局面で、サッカー選手だからそれなりに読み、などはできるのだろうが、都度爆裂的な反応が求められるということなのだろう。だからちょっとした、ほんのわずか、0.0何秒というオーダーの反応速度の違いが異なる結果をもたらすはずで、単純な体の反応のみならず、どういった判断を下すか?という内容の違いもあるわけだから、ともかくとある局面を前にして、反応が敵よりもいちいちミリ秒単位でも遅い、というのは案外致命的なのではないか?と考えられるのだ。要するに、これは事前練習で反射神経を鍛えるとか、テクニックのバリエーションを増やすとか、判断能力を鍛えるとか、そういうものではカバーしきれるものではなくて、その場その場での貪欲さ、反応速度がどーのこーのとか、局面での最適解だとかではなく、後で聞かれれば「ああ。そりゃ定石。セオリーさ。」とはいえるかもしれないけれど、プレーの時点じゃんなこたぁ全く考えてなんかいられない、という次元の話なのではないか?と。
で。さらに勝手に進めると、何で我が代表チームが、私からすると「あれ?もっと何かできるんじゃなかったっけ?」と不審に思えるぐらい、何もできなかったように見えたのか?勿論W杯。本気出してないわけなんてない。気合い?ないわけないじゃん。じゃあテク?テクは相当上手と思う。でもだめだった。。やっぱり局面局面で相手に勝ててないんじゃないか?と。さらに一生懸命やっている選手本人たちが一番、「あれ?何でイメージどおりにいかないの?」と不審に思っていたのではないか?と。
コンディション調整の失敗というのもあったのかもしれないけれど。この「局面局面で勝れなかったことの連続」説は結構有力であるように思われるのだ。血沸き肉踊らなかったことの原因として。
じゃあなんで2010年は2勝もできたのだろう?多分なるべく局面勝負の数を減らしたからだろう。だから再三言われる「弱者のサッカー」みたいな非常に高慢ともいえるいわれなき自己批判が起こったのにも、いわれなき、だけど理由はあったのだと思う。
強者のサッカーとは、では、局面で拮抗した戦いを挑み、そして勝つサッカーだろう。
で。それって日本の文化に照らして可能なのか?というのが私の論点なのだ。
体力ではない。だってそんなもんいきなりガタイが立派になることなんてないし、速く走る、パワーをつける、なんて言ったって生まれ持っての能力の違いを劇的に変えることなんてできないんだもの。
文化なの。私の論点はあくまでも文化。変えられそうに見えてなかなか変えられないものだから。
よだれどれーんのワイルドさが社会的、文化的に抑制されている国のサッカーでは、局面局面の戦いを挑むなんて無理だろう、ということなのだ。
考えてみてほしい。サッカーは90分間もある。素人目にはだらだら同じフィールドを行ったり来たり。でも選手達はそこで目の前に現れる局面局面に、敵と相対しながら迅速的確に反応し続けなければならないのだ。局面の数って何個あると思います??文字通りCountlessなんですよ。そんな戦いの場面でよだれどれーんのワイルドさんと、「よだれ??んなもんかっこわるいっしょ。見てる人にも不快だし」とか言ってる人が、90分間も戦って、後者が勝ち切れますかね?まず無理。勝ちたいなら、「弱者」だろうがなんだろうが、局面勝負は可能な限り減らすしかないのですよ。
念のため確認しておくけど、選手たちは皆本気で戦っていたと思う。でもそれって日本文化でいうところの本気なのです。よだれなんてぜったい垂らさないっていうね。でね?サポーターとかニッポン人。我が代表チームの選手達にだけ「よだれ垂らせよ」って言いますかね?言いますよね。。それがニッポン人ですもの。何が言いたいのかって??根本的にどういうことかがわからないんですよ。「よだれたらすぐらいの本気って何?」ってことが。同じ人間。たまたま日本に生まれたってだけで、「よだれたらしてても気づかないぐらい入れ込む人」が皆無なんてことはありえない。ただし。社会的に抑圧されれば、そんな「バカ」は絶対に激減する。なぜならボーダーは越えた方がいい場面もあるし、そういった判断ができる人だって沢山いるにちがいないけれど、でも、越えなきゃならないような人が、社会的抑圧に反して越えようとする可能性は明らかに少なくなるからだ。生粋のバカというのはそんなにはいないのでね。いたらちょっと怖い社会だけどね。。
さらになんでサッカーは文化とまで言えるのか、というと、考えてみてくださいよ、生まれた時から誰それさんはサッカーの日本代表になる、なんてわかります?わかるわけないよね。そこまで上り詰めるには否応なしに日本の社会を生き抜かねばならんのですよ。で。何が起こると思います?育成育成言ったって、平気で「結果が全て」とか言ってしまえる素人がわんさかいる環境で、いたいけな子どもたちが結果度外視で鼻水たらして、よだれ垂らしてサッカーみたいな球遊びに入れ込めますかね?多分本物のバカにはほぼ関係ないだろう。もしそのほんもののバカにサッカーに必要な能力の一つや二つでも飛びぬけたものが備わっていたら、おそらく国際的にもかなり有名な選手になるだろう。香川選手なんて能力的には相当スゴイんだと思いますよ。鼻水たらさなくたってあれだけできるんだもの。海外でプレーしている選手達は絶対にこの違いを感じているはず。感じていても出せないのよ。自分らには。だってほんもののバカじゃないし。ああ本田選手ね。多分あの人はほんもののバカだと思う。いかんせん身体的能力がスーパーではないけどね。ただこういうふうに一人ひとりの生まれ持っての資質であるとか性質であるとかを論じても仕方がない。文化なの。文化。なんで?って?究極的にはサッカーってお行儀のよいスポーツじゃないのよ。でもスポーツである以上、一定の枠内でやらされるわけ。で。ニッポンって一旦既成の枠なんてもんがはめられたらさ、その枠がめちゃくちゃ重視されるわけよ。もう枠の方が本質を統御するぐらいに。だから勿論よその国だって戦略立てて、そのプランどおりに動こうという方針は決める。それでも選手一人一人はプランは踏まえても、局面で「どーしよっか?」なんてことはまず考えてない。多分。考えてたらあんなにスピード感ある動きは連続してできないはず。極端に言えば、我が代表は「プラン」があるなら、それに沿った行動をとるべき、というのが先に来て、局面局面では、「ありゃ?半歩足りてねー!なんで~??」の繰り返しだったのではないか?でもね。人類一般で見て、これは非常に特異なこと。だってさ、ふつうサッカーってのが単なる枠の一つでしかないなら、結局中じゃ何やったっていいわけじゃない。枠をはみ出さなければ。なのにニッポンってやつぁ枠に勝手に格式だとか「枠らしさ」みたいなものを設けてしまう。で?何が起こってます?ただの枠が、そうやって勝手に作った「らしさ」みたいな付加的な意味を持たされてしまって、一人ひとりがその付加的意味すら加味して行動しようとするわけ。「弱者のサッカー」。これ典型ね。。強者のサッカーってめちゃしんどいよってことも分からないのにね。。でも、これって仕方がないことなのよ。だって社会で生きていくってそういうことだから。「何か意味があるのよ」ってシグナル受ければ、ああそうなんよね、って肯定的にまず解釈しようとするものなの。はなっから意識的に違反しようとはしないものなの。気づかずに無視することはあっても、意識的に無視するようになるまでには、一旦受けれいて、それにもとづいて経験してみるってことが必要なの。枠に勝手にらしさを求めることはそれはそれで悪いことではない。優美な文化。慮っての言われる前からの気配りなんて、これがなきゃ成り立たない。でもサッカーで、そういったルールでは育ってきていない人々と、まさにしのぎを削り合うような戦いはできない。身体に染みついている反応の仕方が違うんですもの。まあまずはこの違いってのをニッポンに生まれ育つ人々一人ひとりが自覚しなきゃサッカーにだけ適用可能な特別ルール?(「隙間があったら何をおいても飛び込むの。埋めるの。もうそういう風に自然に動きなさい。」)なんて醸成されるわけもないし、だから、実際やってみたら実は勝負できないってことも分からないし、よって我が代表が劇的に異なるパフォーマンスを見せてくれるなんてこともないだろう。要するに、選ばれちゃった後で、あんたらだけ気狂いになりな、なんて言われても(別にみんなして言ってもいいけど)、パフォーマンスは変えられない。
国民一人一人が、サッカー少年をとりまく大人の一人ひとりが、それこそサッカーフィールドさながらに局面局面で「いい」「悪い」を判断してあげられるようなスーパーな文化が育たない限りは、代表の選手だけに根本的に異なる文化を求めても、まさに"から騒ぎ"で終わってしまうに違いない。30分の試合で最初の10分でバテバテになってる子を見て、さかしらに「ペース配分を~」とか言ってるようじゃ、サッカーに必要な体もできはしまい。だってW杯見てたら別にペース配分なんて考えているように見えないもの。それよりも「おー。こいつらまだ走りまくれるんやー」という超人的パフォーマンスに興奮する方が大きい。「ペース配分を~」なんて子どもがいたら、「お前あふぉ?点取られたら終わりやないけ~」ってどやしつけるぐらいでないとね。。繰り返しますが、現代表選手達は本気で頑張っていると思う。必要なのは、本気で頑張るって何?具体的にどういう行動?考え方なの?ってことね。できるできないは別にして、理解することよね。多くの人々が。理解もしない、しようと努力もしないのに、曖昧な「つまらなさ」だけ取り上げてわーわー騒ぐというね。そういった刹那的な態度、一旦自分らは大勢に属しているってことを確認しなければ何もできない、属しているってだけで「正義」の側にいることにして、本質的なことはまずもって考えようとしない、というような文化ね。これ変えなきゃだめよ。変えられなくてもそういうもんなんだなってことぐらいは理解しなきゃね。それが我が代表のパフォーマンスにも少なからず影響しているはずなんだから。「そんなファンタジーなお話信じれるわけない!」とかいう小理屈もとりあえず控えてみる必要はあるよね。
この2試合の面白くなさは厳然たる事実。だってこれだけ違った感覚を持って生きているはずの大勢の人が面白くなかったって感じてるんだからさ。でもね。サッカーは文化だからね。みんなで作ってるものなのさ。そうした本当の意味での参加の意識。持った方がいいね。サッカーに限らず、日本の文化ってものをいいところも悪いところも踏まえて生きていけるって意味でね。鎖国中の島国なら別にそんなもん踏まえなくたっていいけどさ、サッカーだけでなく、もういろんな外国の異なる文化の人々と接する機会があるわけだし、自分らが何者か?無知で接するなんてのは、それこそ、日本的な「らしさ」重視の文化からすれば、全くもって「恰好悪い」ことなんだしね。



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Tuesday, May 20, 2014

About 'Time'

First, if it were possible to make judgment only based on definitive identities of things with regard to rationality, it would become extremely difficult to explain why sometimes discontinuous changes are observed. It is too apparent that actors cannot identify things with their respectively definitive identities; thus, always refer to contents and contexts to establish reality intelligible to them. But, even in case that reference to contents and contexts are presumed, visible attributes are not likely to differ significantly between actors simply because they share more or less identical visual perceptive systems. Then, bringing about significant differences between actors should be attributed to what cannot directly be observed. As Gibson (1978) establishes, human perceptive systems can as their normal capacities generate two distinct sense data between direct observation and indirect background information at one time. Without assuming this characteristic of human perceptive systems, the most critical assumption in the concept of sensemaking or the logic of practical rationality that one can see a thing in relation to other things is not possible. Then, because of this characteristic shared by all of the actors, visible side of attributes identified can amply certainly be predicted to resemble one another. However, still, such resemblances in appearances never guarantee any exactly identical understandings on such resemblances. Simply, each one has her own perspective. What has been perplexing us most is invisibility of source of each one's perspective. While it is too obvious that different actors have different perspectives, we do not know what causes such differences. Then, scientists tend to look for something we can directly observe. This is the very beginning of mistake, or, such is literally a wrong start. What makes significant difference cannot be observed by anybody by any means including by means of sophisticated devices. Scientists tend to assume that what makes difference should be variance in capacities or environmental factors among different actors partly because they are relatively superior in terms of intellectual capacities to others. Simply, they can see more than others. But, what makes significant differences is something that is never directly observed even by gifted scientists. Time is it. What is important is the fact that everyone can feel time while no one can see it. Why does everyone feel time, then? One is because we have memories. Another is less explicit but, because we are registering data about ceaseless movements through our ceaselessly moving physiological perspectives, we may eventually feel time. Thus, the reason why everyone without exception feels time is grounded conspicuously in sense data received from materially real things. Hence, time is both material and fictive. 
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Friday, April 11, 2014

Inclusive axeology, realistic ways of centering human beings

With this inclusive axiology of practice view, human actors appear to be regaining their territories within organizations. While it is questionable if they are liberated from 'iron cage' of bureaucracy, human actors' capabilities to make sense of events and phenomena, things, fellow actors, and self seem to be acquiring realistic and critical positions from which more accurate explanations about organizational reality can be presented. This thesis attempts to push a step further such movements towards the realistic manner of centering of human actors in the analyses of organizational phenomena.
With regard to the word 'realistic', I should clarify my position. Admitting possible criticisms of determinism, naturalism, or essentialism, I mean by 'realistic' that capabilities of human actors are constrained by nature; and thus, analyses of processes of organizing should firmly be predicated in such immutable and inherited natural capabilities of them. Among such innate capabilities, those of reasoning and socializing are seen to be originating in nature as well as those of feeling and acting. Put differently, human beings are regarded as naturally evaluative and social beings as well as sentient and mobile beings; and thus, practices they engage need to be understood to be taking place in nature. At the same time, however, to subscribe also to 'realistic' in conventional terms, this thesis does not focus on individual actor's capabilities in isolation from other actors including non-human entities. As has just been mentioned, human beings are to be seen as naturally social beings; thus, their natural capabilities deserve analyses in practical field of organizations only if positioned in relationships with others.
  

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